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 無題
「物に名前をつけるのは好きじゃないんだ」
「あら、ペットは動物よ。物じゃないわ」
「動く物じゃないか」
「じゃあ、あなたは自分の名前をどう思っているのよ」
「牛に押された烙印と同じだよ」
「なにそれ」
 柊二は少し残念な、ほっとしたようなため息をついて、言った。「個体識別のための、単なる、記号だよ」
 柊二の物言いは、殺風景だ。
 じゃあ、と私は続けた。「じゃあ、本日をもってめでたく家族の一員となったこの子猫ちゃんの名前は、名無しの権兵衛さん、ってことで柊二は納得ね」
「それって、自己矛盾してるよね。名無しの権兵衛っていう名前って」
 柊二の言葉は、いつも修辞的だ。

 ***

 紗代は小さな頃からいる、僕の親友、のようなものだ。肉体関係のある異性を親友と呼んでいいのか、その点で僕は少し頭を悩ませるのだが、体を重ねているときには、どうでもよく感じられる。
 五歳の頃に紗代と初めて会ったと記憶しているから、もう十五年の付き合いだ。だから紗代の歴代の彼氏なんかよりもよっぽど、僕のほうが紗代に詳しい(と思う)。紗代は、甘酸っぱいイチゴが好きで、舌に余韻を残すメロンが嫌いだ。きれいなラインを描くくびれたウエストには、オリオン座のように小さなほくろが三つ並んでいる。機嫌がいいときは「ねえねえ柊二」、機嫌が悪いときは「ねえ柊二」と僕を呼ぶ。そして、好きなものには、名前をつける。
 名前なんて必要ないのに、と僕が口にすると、紗代は決まって「そうよね、私がいなかったら、柊二には名前なんて必要ないかもね」と、恩義せがましいような、皮肉るような口調でぼくをなじる。たしかに、僕の名前は紗代に呼ばれるためだけにあるようなものだから、反論することもできずに黙るしかなかった。沈黙は屈辱だ。誰だ、沈黙は軽蔑を表す最も完璧な手段だ、なんて言ったやつは。
「ねえねえ柊二」紗代は猫の両脇に手を差して持ち上げながら言った。「ピグマリオン効果って知ってる?」
 思い出した、バーナード・ショーだ。彼には是非とも沈黙がなんたるかを教えたい。が、ピグマリオン効果というのは知らない。
「柊二にも知らないことがあるんだねー」
 馬鹿にすることもなく、嘲笑を浮かべることもなく、本当に驚いているようだ。
「簡単に言えば、豚もおだてりゃ木に登る、褒めて伸ばせ、っていうことよ」
 猫を天井にかざしながら、紗代は顔をほころばせている。褒めて伸ばして猫に芸でも仕込むつもりか? 残念ながら、犬と違って猫は芸を覚えない。だけど僕は何も言わない。沈黙は優しさでもある。紗代ならなんて言うかな。沈黙は……。

 ***

 猫の名前は「スフレ」に決めた。ふわふわの長毛が、カップから溢れるように膨らんだあの洋菓子そっくりに、甘い雰囲気だから。
「あの洋菓子は、放置しておくと、情けないくらいにカップの中にしぼんじゃうってこと、知ってた?」
 私はシャンプーをしてあげた直後のスフレを想像した。柊二はしばしば、一瞬にして私のロマンチシズムをぶちこわす。
「柊二は黙っておく優しさもあるっていうことを知らないの?」女心のわからんやつめ、と口にしようとした私の隙を見て、その洋菓子の名前を授かった子猫はするりと私の腕から抜けて柊二のほうへ駆けていった。後ろ足に力をこめて飛ぶように走り、そのまま柊二を飛び越えてテレビの上に着地。私が審査員なら技術点、芸術点ともに十点満点の跳躍だ。
 スフレと私は言葉を交わせない。人間語と猫語との意思疎通は非常に難しいのだ。言葉にできないことには沈黙するしかない、とかどこかの誰か(といっても柊二のことだが)が言っていた。沈黙するしかない、なんて、なんて傲慢な表現だろう、と思う。何も語らなくても、むしろ言葉にしないほうが、伝わることもあるだろうに。言葉で喋ることだけがコミュニケーションの手段ではないじゃないか。子猫にはやわらかい表情があって、柊二には何やら難解な数学の記号があって、私には……私にはなにがあるの? ねえねえ、柊二。

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